ボードレール語録

「悪」印象が強いけれど、決してそれどころではないボードレールの魅力を広めたい一心で。

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    ボードレールのパリ
     明けましておめでとうございます。

     今回は、ボードレールの住んでいたパリにやって来ました。実際に巡ってみて、先生引越しが多すぎるという事が実によく分かりました。
     調べるのが面倒だったので、看板の出ていた一部の物件を除いては、正確なものかどうか保証出来ませんが、地図にしてみました。まあ、参考の程に。


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    | ボードレールについて | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
    ボードレールの南洋旅行
     ボードレールのエキゾチズムが云々されるときに必ず引合いに出される「南洋旅行」の顛末を少々。
    断っておくが、脚色は、ゼロである。


     1839年、18歳のボードレールは当時パリの名門学校だったルイ=グランを些細な事件から(日頃の反抗的な素行も手伝って)退学し私設の寄宿学校に入った。ただし、そこがまた受験勉強のための学校とは言いながら、実は単なる不良ブルジョワ少年の巣窟だったりしたのである。当時の不良ブルジョワ少年が何をやっていたかというと、酒と女と博打か文学、というのがお定まり。当時にあってはノルマン派という文学青少年の一派がたむろしており、ボードレールとも競作したり共作したりとなかなか仲良しだったという。ボードレールの文学人生はここから始まったとも言えるかも知れない、と思う。
     というわけで勉強はあまりしてなかったというのが察せられるけれども、それでもなんとか大学入学資格試験、通称バカロレア、現代日本でいうところの大検とセンター試験とが混ざったような試験を通過し(これに関しては黒い噂がある、いやマジに)、法律関係への就職を希望する両親に従い一応は法科大学に登録。しかし不登校。文学仲間と騒いだり女にうつつを抜かしたりして勉強もせずに遊び回るという嘆かわしい生活を送る。
     ただ、この時期に巨匠ユゴーと面会したり、ネルヴァルやらバルザックと知り合ったり、なかなか為になる出会いがいっぱいあったっぽい。梅毒に罹ったのもこの頃だという見方が有力だ。なかなかにそれなりに充実していたとも言える。

     1841年、20歳になったというのに学校も行かず、将来の展望もなく遊び惚けているように見える(実際そうなんだが)ボードレールの行く末を案じた継父オーピックは、環境が悪い影響を与えているのだと考え、親族を集めて会議を開催。悪所悪友だらけの猥雑な大都会パリから彼を遠ざけ、明るい陽光と清潔な空気の中に身を置き、広い世界を見聞すれば、必ずや、不健全な我が身を反省して実業に目覚め、有為な社会人として立ち直ってくれるに違いない、と提案し全会一致(ボードレール以外)で承諾されたのである。これは渋々ながら従うよりはない。ムカついたであろうことは想像に難くない。
     行先はカルカッタ、オーピックとしては、願わくばインド名産繊維産業などに興味を抱いてその方面に進んでくれることを期待していた模様である。見込み違いも甚しい、とはまさにこのことだ、と今なら言えるのだが、まあいつだって見込みというのはそんなもんである。
     ついでながら、費用はボードレールが受け取るはずの実父の遺産で賄われることとなり、それについてもムカついたであろうことは想像に難くない。
     さて、というわけで、ボードレールは経験豊富な大ベテランの海の男で気の優しい温厚な紳士である「南海」号の船長に託されることとなった。オーピックは顔が広く人望も篤かったのでこういうことはさくさく決まったのである。出港は6月9日、ロックの日である。

     旅ともなればワクワクもので、妙にはしゃいだりもしがちであるが、しかしまあ我らがボードレールの偏屈ぶりはご存じであろう、やはり船中での彼は他の船客とも打ち解けず、たまに喧嘩を起こす他は一人黙々読書するばかり。心配になった船長が話し掛けてみると愛想もいいのだが、心を開かないのは変わらない。
     いきなり島流しみたいな仕打ちを受けて精神的に不安定なんであろう、と、若者特有の繊細な感情みたいなのを顧慮して、船長はあまり干渉しないことにした。それから、気晴らしになるよう航海について愉快なの話をしたりした。あと、船の操縦の仕方を少し教えてあげたりした。海上生活、パリとは違う星空、イルカの群れ、初めての体験に心も躍って楽しかったそうだが、何せ根っからの都会っ子、布団の中では、オーシャンゼリゼ!とか思っていたに違いない。とうとう偏屈なままであった。そして。

     9月、旅も半ばアフリカ最南端希望峰を越えた辺りで「南海」号はとてつもない嵐に遭遇した。
     この嵐というのが凄惨なもので、海のことならなんでも知ってるくらいの船長でさえ、「私の長い船乗り人生でも見たこともないくらいに桁外れ」というほどの代物。航海初体験のボードレールにとってみては想像を絶するハードな状態であったと想像される。過酷である。
     そんな中を何日も進む内、「南海」号は積荷が流出するわ、マストが折れるわ、舵がイカれるわ、船はほとんど航行不能なまでに破壊されてしまった。
     運良く通りすがりの船に救助され、なんとか辿り着いたモーリス島、現在はイギリス領モーリシャス島で一行は、修理だのなんだので一月以上も足止めを食らうはめに。

     その間、現地のお宅にご厄介となり、まあパリからやってきた名家のご子息、というわけで地元の名士のお宅へ食事に招かれてお話したり、自らの詩をそこの奥さんに献呈したり(『悪の華』61・「植民地生まれの夫人に」)、異国情緒に感銘を受けたりしていたのだが、しかしまあ、平和な田舎の狭い離島のこと、一月も居ればやることもなくなり、しょうがないから日がなぶらぶらしているともなればそりゃあ飽きもくるってなもんで、船の修理もじき終わるという段になりボードレールは堪え難いほどのホームシックに罹患してしまった。
     とりあえず船には乗り込んだものの、次の停泊地ブルボン島でそれ以上先に進むことをボードレールは断固拒否。「ぼくもう帰ります!」と宣言し、なんとか説得せんとする船長を突っ撥ねフランス本国行きの船に乗り込んでしまった。11月のことである。
     船長は、偏屈な少年から開放されてほっとしたのと任務遂行が不首尾に終わったのとで複雑な気分、と、オーピック宛に手紙を書き送っている。
     帰りの船中での振る舞いはよく分かっていないのだが、多分また他の人から離れて一人で本でも読んでたんだろう。散文詩「遂に」なんかを読むとそんな気がする。

     そんなこんなで翌1842年2月、突如帰宅して家族を驚かせ(そして落胆させ)、しばらくは大人しくしていたものの、4月、法律上の成人に達し亡父の遺産を相続したボードレールは、現代までも続く「デカダン詩人」という不名誉なパブリックイメージを作る元となった贅沢三昧生活へと突入するのであった。

     つづく
    | ボードレールについて | 07:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
    詩集『悪の華』の成り立ち
     詩人ボードレールの生前刊行した唯一の詩集(散文詩集『パリの憂鬱』は、死後2年経ってから初めて詩集の体裁をとった)であり、伝統的な韻文詩の形式を厳格に守りつつ、ロマン主義の流れを汲みながら、一般的な概念とは離れた美学に基づき、実存的なアプローチから純粋な詩(ポエジー)を抽出しようとした『悪の華』の方法論は、ヴェルレーヌ、マラルメなど、いわゆる象徴派の詩人らへ強い影響を与え、その先の近代詩に対しても明確な道筋を指し示したが、その成立には無数の紆余曲折があった。


     1840年代後半には、後に『悪の華』に含まれることになる作品のほとんどが既に書き上げられてはいたが、ボードレールの頭の中では納得のゆく詩集の姿はなかなか現れなかった。
     自分や友人たちの出す本、雑誌や新聞に、まず1845年から47年にかけて『レスボスの女たち(レズビアン)』、48年から52年にかけて『冥府』といった題名の詩集を度々予告し、「詩集からの抜粋」として幾度も詩を発表しているのだが、しかしながら実際に詩集が出るまでには至らずに終わっている。
     そうこうしている内に、ボードレール本人お気に入りであった『冥府』の名は、違う詩人に先に使われて泣く泣く諦める羽目になってしまうのである。

     しばらく『冥府』に替わる題を探し求めていたボードレールであったが、友人との会話中に相手の口にした「悪い花」という言葉から『悪の華』という名前を思い付き、これを総題として1855年、18篇の詩を雑誌「両世界評論」に発表した。ここにおいて、それまでの断片的な発表とは異なる、後の『悪の華』を予見させる構成が初めて目に見える形となって現れたのである。
     作品のスキャンダラスな性格から出版の目処はなかなか立たなかったが、1856年の末、友人でもあるプーレ・マラシとの間に出版契約が成立。翌57年2月には、原稿をマラシに引き渡し、マラシもうんざりな程に度重なる校訂を経て、当代の大詩人テオフィル・ゴーティエへの献辞を付し、101篇の詩からなる『悪の華』「初版」が発売されたのは同年6月25日のことだった。
     『悪の華』が発売されると同時に、猥褻で扇情的な作品との攻撃記事が雑誌「フィガロ」を始めとして多数現れ、これを受けた検察は風俗壊乱の容疑で捜査を開始し、数日後には著者と発行者を起訴、売れ残っていた詩集はことごとく押収されてしまう。
     友人らと共に弁護活動に奔走するも功を奏さず、翌8月に開かれた裁判では有罪が確定し、罰金刑と詩篇6篇の削除が言い渡され、詩集は当該部分を破られて販売されることになった。この時削除された6篇の詩は後に、ベルギーへ亡命したマラシにより『漂着物』という拾遺詩集に収められる。
     練りに練った構成を破壊され、一時は気落ちしたボードレールではあったが、裁判によりいくらか有名になったお陰で作品を発表する機会も増えたことで自らを励まし、今度は『悪の華』改訂を目指して邁進することになる。
     ところで、司法によって断罪された『悪の華』ではあるが、1858年には文部省より文学助成金として補助金が与えられたりもしている。

     1861年、大幅に章立てと配列を改め、削除された6篇を遥かに上回る新たな作品が加えられ、また既存の作品にも手を加えた、137篇の詩からなる「再版」が発売される。
     「初版」に比べてより強固な構成力を得た『悪の華』の中でも、新たに加えられた章「パリ描景」は、移り行く現実の都市を描く詩が目白押し、当時においては読者に強い衝撃を与える画期的なものであった。
     個々の作品に限らず、全体的な仕上がりにもボードレールはほとんど満足していたらしく、最も詩人の意図に沿ったものだとして、現在出版されている『悪の華』はもっぱらこの「再版」を基にしたものでが多い。

     晩年のボードレールは、更に完璧を目指した「第三版」を出すつもりでいたが、健康状態の問題により実現することないまま他界する。
     死後、負債整理のため競売に出された著作の出版権を落札したミシェル・レヴィは、「再版」以降の作品を加えた『悪の華』を全集の内の一巻として刊行する。これがいわゆる「第三版」と現在呼ばれているものだが、これはボードレールの意図に反する部分も多く、しかも編集が杜撰だとの指摘が多くされているのであまり人気がないと見える。


    ボードレールの計画した最終的な『悪の華』については、様々な研究者が、ああでもないこうでもない、と試みているが、ご当人は亡くなっているので答えなんか出るわけがないのだけども、そういうのを色々と見較べて、自分で色々と考えたりすると面白いものであると思う。




    その内きちんと書き直します。
    | ボードレールについて | 15:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
    ボードレール略年譜
    これさえ知っておけば、「ボードレール知ってるよ」、くらいの口を叩いてもボロのでない、極めて簡略な年譜である。

    1821年4月7日 シャルル=ピエール・ボードレール、パリに生まれる。
    1827年 父フランソワ死去。
    1828年 母カロリーヌ、陸軍少佐ジャック・オーピックと再婚。
    1839年 名門ルイ=グラン中学を退学。
    8月 バカロレア(大学入学資格試験)に合格。
    11月 法学部に籍を置く。
    1841年6月 親族会議の決定に従い、ボルドーからカルカッタへ向う。途中ブルボン島で引き返し、翌年2月帰国。
    1842年4月 青年に達し亡父の遺産を相続。独立。
    1843年 サン=ルイ島、ピモダン館に転居。いわゆるデカダンな生活を送る。
    1844年 破産宣告。
    1845年5月 ボードレール=デュファイスの名で美術批評『1845年のサロン』刊行。
    6月30日 自殺未遂。
    1847年1月 小説『ラ・ファンファルロ』を発表。
    1848年2月 二月革命に参加。シャンフルーリらと革命支持の新聞を発行。この頃アメリカ人作家エドガー・アラン・ポーを知る。
    7月 ポー「催眠術の啓示」の仏訳を発表。
    1851年4月 雑誌に近刊の詩集からの抜粋として11篇の詩を発表。1855年 万国博の美術評を連載。
    1857年6月25日 『悪の華』刊行。
    7月5日 風俗壊乱の容疑により起訴される。
    8月20日 『悪の華』裁判の判決。6篇削除。著者、出版者に罰金。
    1860年1月23日 最初の脳出血の発作。
    5月 『人工天国』刊行。
    1861年2月 『悪の華』第二版発売。
    1862年8月 散文詩11篇を「プレス」誌に掲載。
    1863年11月 「現代生活の画家」連載。
    1864年 ベルギーへ移住。
    1866年3月15日 脳出血の発作に倒れる。
    6月29日 母に伴われパリへ帰る。
    1867年8月31日 パリに死す。
    | ボードレールについて | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
    「ボードレール語録」の著作権
     ボードレール本人の著作権は、死後150年も経っており、とっくに切れております。ボードレールに興味を抱かれた皆様方におかれましても、バリバリ翻訳なさって戴くと、何かと(日本ボードレール文化のためとか)いいかと思います。
     んで、当方「ボードレール語録」の著作権ですが、クリエイティブ・コモンズに則りまして、転載転用改変改良御随意にどうぞの方向ですが、なにぶん詩的には大したものではありませんで、まあ責任者掲示あったほうがいいかも、というくらいです。

    但し、僕の訳ではないもの、括弧入りで訳者名とかが付いてるのはあんまりよくない場合があるかも知れません。
    気をつけましょう。

    | ボードレールについて | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
    岩波文庫「パリの憂愁」
     ながらく探していた「パリの憂愁」を買った。
    中身は人文版全集に入っているのと同じ。

     新潮文庫「巴里の憂鬱」よりも時代が下った翻訳なので現代口語により近く、原文の忠実な再現を期したために直訳調の印象を与えがちなちくま文庫「ボードレール全詩集・小散文詩」と比べると意訳を多用しているせいか日本語としてこなれた感じ。
     一つ分かりやすい例を挙げるとこうなる。

    「犬よ、可愛い犬よ、私の親しい犬ころよ…」
    (新潮版「犬と香水壜」)

    「私の美しい犬、健気な犬、可愛いわんわん…」
    (ちくま版「犬と香水壜」)

    「可愛いわんわん、僕の大事な子犬君…」
    (岩波版「犬と香水壜と」)

     まあそれにしたって、四十過ぎのおっさんが犬に向かって「かわいいわんわん」って…。ああ、言うね。


     散文詩(poem en prose)というのは字の通り散文で書かれた詩であり、散文というのは、律動や押韻などの音響効果による語感や、語そのものが作り出す感情構造(シニフィアンの喚起するイマージュ)に頼らず、語の指示対象が作り出す感情構造(シニフィエが喚起するイマージュ)のみに重点が置かれているので、韻文詩に比べて訳しやすいとも一見思えるが、ところが。

     文学作品すべてに共通することだけども、翻訳の際に大事なのは、語の指示対象そのもの(シニフィエ)ではなく、指示対象が作り出す感情構造(シニフィエが喚起するイマージュ)なのであるわけなので、その上で文意に適合した指示対象を見付けだしては当てはめるという作業をしなければ作品性が失わてしまう。双方の言語同士の間で、皮膚に対する手袋のように一致する観念であれば問題ないけれども、そう上手く見つからない場合も多く、そこで意訳という手段が必要となるのだがしかし、意訳は本来の作品性を失わせはしなくても歪めてしまう欠点がある、というわけで恐ろしく難し気なものなのである。

     ただでさえ難しい翻訳に加え、ボードレールの書く文は多義的で屈折していて晦渋で錯綜していて逆説的で回りくどくて訳者泣かせ、という評判が立つほど訳しにくい、というか読みにくいことが更にその難しさを増大させているわけで、やれやれ、あらかじめ日本語に訳されたものを手軽に読める時代に生まれた気軽な読者でよかったなあ、と胸を撫で下ろすことしきりな最近、他人事のように訳者の苦闘に思いを馳せ、よくやった! 感動した! などと本に向かって独り言ちてはへらへらしたりしているぼくではあるけども、真剣に畏敬の念に堪えなかったりする。剣呑剣呑っつって。

     かくも困難な闘いの末に送り出された岩波文庫 ボードレール作・福永武彦訳「パリの憂愁」は、作品の感情構造を保ちながら、現代日本人の言語感覚に割と近い言葉遣いでの表現が成功を納めた素晴らしい翻訳であり、初めてボードレールを読む人にもお薦めの一冊なのだけれども。
    「憂鬱」に比べて「憂愁」という語にキャッチーさが足りないためか、親しみやすさが逆に有難みを減少させるのか、果たしてその両方なのか、現在生憎絶版中。惜しい。

     古本屋では¥100円やそこらで、ワゴン棚なんかに打ち交っているので、探してみるといいと思う。


     そこまではしたくないという向きの方は新潮版、壮麗な訳で有り難みもあるし、いつでもどこでも手に入るし、何よりもタイトルがキャッチー。


     新訳でねえかな、と他人事のように思うこの頃、来月にプレイヤッド版を買ったら自分でやってみようかなあ、と考えたりするので、やってみようかなあ、と思う。

    | ボードレールについて | 12:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
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