ボードレール語録

「悪」印象が強いけれど、決してそれどころではないボードレールの魅力を広めたい一心で。

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    ボードレールの南洋旅行
     ボードレールのエキゾチズムが云々されるときに必ず引合いに出される「南洋旅行」の顛末を少々。
    断っておくが、脚色は、ゼロである。


     1839年、18歳のボードレールは当時パリの名門学校だったルイ=グランを些細な事件から(日頃の反抗的な素行も手伝って)退学し私設の寄宿学校に入った。ただし、そこがまた受験勉強のための学校とは言いながら、実は単なる不良ブルジョワ少年の巣窟だったりしたのである。当時の不良ブルジョワ少年が何をやっていたかというと、酒と女と博打か文学、というのがお定まり。当時にあってはノルマン派という文学青少年の一派がたむろしており、ボードレールとも競作したり共作したりとなかなか仲良しだったという。ボードレールの文学人生はここから始まったとも言えるかも知れない、と思う。
     というわけで勉強はあまりしてなかったというのが察せられるけれども、それでもなんとか大学入学資格試験、通称バカロレア、現代日本でいうところの大検とセンター試験とが混ざったような試験を通過し(これに関しては黒い噂がある、いやマジに)、法律関係への就職を希望する両親に従い一応は法科大学に登録。しかし不登校。文学仲間と騒いだり女にうつつを抜かしたりして勉強もせずに遊び回るという嘆かわしい生活を送る。
     ただ、この時期に巨匠ユゴーと面会したり、ネルヴァルやらバルザックと知り合ったり、なかなか為になる出会いがいっぱいあったっぽい。梅毒に罹ったのもこの頃だという見方が有力だ。なかなかにそれなりに充実していたとも言える。

     1841年、20歳になったというのに学校も行かず、将来の展望もなく遊び惚けているように見える(実際そうなんだが)ボードレールの行く末を案じた継父オーピックは、環境が悪い影響を与えているのだと考え、親族を集めて会議を開催。悪所悪友だらけの猥雑な大都会パリから彼を遠ざけ、明るい陽光と清潔な空気の中に身を置き、広い世界を見聞すれば、必ずや、不健全な我が身を反省して実業に目覚め、有為な社会人として立ち直ってくれるに違いない、と提案し全会一致(ボードレール以外)で承諾されたのである。これは渋々ながら従うよりはない。ムカついたであろうことは想像に難くない。
     行先はカルカッタ、オーピックとしては、願わくばインド名産繊維産業などに興味を抱いてその方面に進んでくれることを期待していた模様である。見込み違いも甚しい、とはまさにこのことだ、と今なら言えるのだが、まあいつだって見込みというのはそんなもんである。
     ついでながら、費用はボードレールが受け取るはずの実父の遺産で賄われることとなり、それについてもムカついたであろうことは想像に難くない。
     さて、というわけで、ボードレールは経験豊富な大ベテランの海の男で気の優しい温厚な紳士である「南海」号の船長に託されることとなった。オーピックは顔が広く人望も篤かったのでこういうことはさくさく決まったのである。出港は6月9日、ロックの日である。

     旅ともなればワクワクもので、妙にはしゃいだりもしがちであるが、しかしまあ我らがボードレールの偏屈ぶりはご存じであろう、やはり船中での彼は他の船客とも打ち解けず、たまに喧嘩を起こす他は一人黙々読書するばかり。心配になった船長が話し掛けてみると愛想もいいのだが、心を開かないのは変わらない。
     いきなり島流しみたいな仕打ちを受けて精神的に不安定なんであろう、と、若者特有の繊細な感情みたいなのを顧慮して、船長はあまり干渉しないことにした。それから、気晴らしになるよう航海について愉快なの話をしたりした。あと、船の操縦の仕方を少し教えてあげたりした。海上生活、パリとは違う星空、イルカの群れ、初めての体験に心も躍って楽しかったそうだが、何せ根っからの都会っ子、布団の中では、オーシャンゼリゼ!とか思っていたに違いない。とうとう偏屈なままであった。そして。

     9月、旅も半ばアフリカ最南端希望峰を越えた辺りで「南海」号はとてつもない嵐に遭遇した。
     この嵐というのが凄惨なもので、海のことならなんでも知ってるくらいの船長でさえ、「私の長い船乗り人生でも見たこともないくらいに桁外れ」というほどの代物。航海初体験のボードレールにとってみては想像を絶するハードな状態であったと想像される。過酷である。
     そんな中を何日も進む内、「南海」号は積荷が流出するわ、マストが折れるわ、舵がイカれるわ、船はほとんど航行不能なまでに破壊されてしまった。
     運良く通りすがりの船に救助され、なんとか辿り着いたモーリス島、現在はイギリス領モーリシャス島で一行は、修理だのなんだので一月以上も足止めを食らうはめに。

     その間、現地のお宅にご厄介となり、まあパリからやってきた名家のご子息、というわけで地元の名士のお宅へ食事に招かれてお話したり、自らの詩をそこの奥さんに献呈したり(『悪の華』61・「植民地生まれの夫人に」)、異国情緒に感銘を受けたりしていたのだが、しかしまあ、平和な田舎の狭い離島のこと、一月も居ればやることもなくなり、しょうがないから日がなぶらぶらしているともなればそりゃあ飽きもくるってなもんで、船の修理もじき終わるという段になりボードレールは堪え難いほどのホームシックに罹患してしまった。
     とりあえず船には乗り込んだものの、次の停泊地ブルボン島でそれ以上先に進むことをボードレールは断固拒否。「ぼくもう帰ります!」と宣言し、なんとか説得せんとする船長を突っ撥ねフランス本国行きの船に乗り込んでしまった。11月のことである。
     船長は、偏屈な少年から開放されてほっとしたのと任務遂行が不首尾に終わったのとで複雑な気分、と、オーピック宛に手紙を書き送っている。
     帰りの船中での振る舞いはよく分かっていないのだが、多分また他の人から離れて一人で本でも読んでたんだろう。散文詩「遂に」なんかを読むとそんな気がする。

     そんなこんなで翌1842年2月、突如帰宅して家族を驚かせ(そして落胆させ)、しばらくは大人しくしていたものの、4月、法律上の成人に達し亡父の遺産を相続したボードレールは、現代までも続く「デカダン詩人」という不名誉なパブリックイメージを作る元となった贅沢三昧生活へと突入するのであった。

     つづく
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