ボードレール語録

「悪」印象が強いけれど、決してそれどころではないボードレールの魅力を広めたい一心で。

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    1846年のサロン
     批評は、正当である為、言い換えれば、その存在理由を持つ為には、偏向的で、情熱的で、政治的でなければならない。言い換えれば、排他的でありながらも最も広い観点に立ってなされなければならない。
     色彩を蔑ろにして線を賞揚する、或いは線を蔑ろにして色彩を賞揚する、なるほどそれも一つの観点ではあるが、しかしそれは大して広くもなければ、正当な観点でもない。
    | 批評・エッセイ | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
    笑いの本質について
     他の分野の芸術に於けるよりずっとはっきりと、風刺画には二種類の作品、その貴重さと推奨に値する理由がまるで反対であるほどに掛け離れた二種類の作品が存在する。
    一方は、その表象する事実のために価値を持つに過ぎない。この種の作品はもちろん、歴史家、考古学者の関心、哲学者の関心さえをも引く権利を持つ。これは国立古文書館や人類思想の伝記的記録の中に位置を占めるものだ。ジャーナリズムの紙片と同じように、次々と新たな作品を運んでくる絶え間ない風に運び去られ姿を消してしまう。
    そして、これこそ私が特に取り上げたいと思うものなのだが、もう一方の種類の作品は、或る不可思議で持続的で永遠な要素を含み、この要素のために芸術家の関心を惹き付ける。この捉えがたい美の要素が、人間に対してその精神的肉体的な醜さを表象する事を役目とする作品の中にまで入り込んでくるとはなんと興味深く、まさしく注目に値する事柄ではないだろうか。
    そして、これに劣らず不可思議な事柄は、人間の中にこの嘆かわしい見世物が、不滅にして矯正しがたい哄笑の気分を引き起こすという事だ。
    | 批評・エッセイ | 11:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
    現代生活の画家(サイト外)
    新訳された『現代生活の画家』
    l'Invitation @ Baudelaire

     最近は、知らん仏語と格闘するよりも、専門家による翻訳を読んでるだけの方が楽ちんでいいなあ、などと腑抜けてすっかり当サイトの更新も怠りがちでいたわけなんですが、そんな間に、専門的ボードレール研究サイトのl'Invitation @ Baudelaireにて、いつの間にか(いつの話だ)『現代生活の画家』の新訳がちゃきちゃきと進んでいたようで、びっくり! という話です。素晴らしいです。エポックです。

     書店に並んでいる訳の多くは結構昔のものなので、今読むと堅苦しいものであったり、馴染みのない用語が沢山使われていたりと古色蒼然たる印象を与えがちで、なかなか「ボードレール大好き!」とか「ボードレール研究するぞ!」みたいな人以外には取っ付きにくいものでしたが、この翻訳はそうしたところがなくて誰にも読みやすく、なおかつかなり原文に忠実に訳されています。
    詩とか文学とかボードレール自身とかにはあまり興味はないけれど、美術史やなんかの流れでボードレールを読んでみようかな、と考えている人にとっては、特に打って付けではないかな、と思います。

     僕も見習ってもう少し頑張りたいものです。
    | 批評・エッセイ | 13:30 | comments(2) | trackbacks(0) |
    1845年のサロン
     われわれは、よく知られた作家が自らの著書について言うのと、すくなくとも同じほどの正当さをもって、こう言うことができる。われわれの述べることを、新聞は印刷する勇気がないであろう、と。すなわちわれわれは、まことに残酷、まことに不遜、というわけであろうか? いや、違う。それどころか、公平なのだ。われわれは仲間というものをもたない、これだけでも大したことだ、それに敵をももたないのだ。


    (阿部良雄・『ボードレール批評1』・ちくま学芸文庫)
    | 批評・エッセイ | 19:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
    『悪の華』3・高翔
    池沼の上、谷の上を越え、
    山々、森、雲を越え、海を越え、
    太陽、天井の澄気もあとにして、
    星のきらめく天界の限りも突き抜け、

    私の精神よ、おまえは活発自在に動きまわり、
    そして波間にぽっかりとうかぶ泳ぎじょうずのように、どこまでも深ぶかとしたところに航跡を楽しげに残してゆく、言うに言えぬ雄の快楽に耽りながら。

    こういう不潔な悪臭のこもるところから、うんと遠くへ飛び去れ。
    上天に身を浄めに行け。
    そして物のすがた一切が消えうせた空間に充ちわたっている
    澄みきった焔を、特選の神酒のように飲め。

    倦怠と、はてしなく広がって充ちあふれている苦しみをあとにして、
    ちから強い羽ばたきとやらで羽ばたき、物音も絶えた、光のみなぎる上空に
    一気に飛び去りうるものは、みずからを幸福だと思え!

    ひばりのように、朝ごとに一息に、屈託なげに、大空にむかって飛び立つ想念に身をまかせる者、
    人界を下方に見はるかし、花々のことば、そのほか物いわぬものたちのことばを
    立ちどころに解する者は、その幸福に陶酔しているがいい!


    (杉本秀太郎・「ボードレール 詩の冥府」多田道太郎 編・筑摩書房)
    | 韻文詩(悪の華等) | 20:36 | comments(1) | trackbacks(1) |
    1859年のサロン
     簡潔であるために、基本定式から派生するもろもろの系の一群を省略しないわけには行かないのですが、言うならば真の美学の公式のすべてを内に含んでいるその基本定式は、次のように言い表すことができます。
    目に見える全世界は、想像力によってそれぞれ相対的な位置と価値とを与えられることになる影像や記号の倉庫に過ぎない。それは、想像力が消化し変形させなければならぬ一種の飼料である、と。人間の魂のあらゆる能力は想像力に従属させられねばなりませんし、想像力はそれらをすべて同時に徴用するのです。辞書を良く知ることが必ずしも作文の術の知識をもたらすものではなく、作文の術そのものが普遍的な想像力をもたらしはしないのと同様、すぐれた画家がただちに大画家であるとは限りません。しかし大画家は必然的にすぐれた画家である、なぜなら普遍的な想像力はあらゆる手段に対する理解とそれらを獲得したいという欲求とを含んでいるものだからです。
     このようにして私がどうにかこうにか解き明したばかりの諸概念に従えば(まだ言うべきことはいかにもたくさんあるでしょう、とりわけ、あらゆる芸術の互いに一致する部分だとか、それらの方法における類似だとかについて!)、芸術家たち、すなわち芸術の表現に身を捧げた人々の巨大な階層は、まことに截然たる二つの陣営に区分され得ることは明らかです。自らレアリストと名乗る芸術家がいて、この語は二様に解されるし、その意味がはっきり決定されてもいないので、われわれとしては、彼の誤謬をより良く特徴付けるために、彼を実証主義者と呼ぶことにしますが、彼はこう言うのです、「私は物たちをあるがままの姿に、というか、私が存在しないと仮定した場合にそれらがあるであろうままの姿に、表象したいと思う」と。人間なしの宇宙。これに対して別の人間、想像力ゆたかな人は言います、「私は物たちを私の精神でもって輝かせ、その反映を他の精神たちの上に投影したいと思う」と。絶対的に相反するこれら二つの方法はいずれも、宗教的場景から最もつつましい風景に至るまでのあらゆる主題を偉大ならしめることも卑小ならしめることもでき
    るわけですが、それでも、想像力にめぐまれた人間はこれまで概して宗教画や幻想画に姿を現す定めでしたし、これに対して、いわゆる風俗画と風景画とは、見たところ、怠惰でなかなかに奮い立たぬ精神たちに宏大な資源を提供せずにはいませんでした。
     想像力ゆたかな人たちと自称レアリストたちの他にもさらに、臆病で従順な人間たちの一階層があり、彼らは偽りの尊厳性の規範に従うことに精いっぱいの誇りを感じているのです。ある者たちは、まったく約束事の規則、人間の魂から引き出されたものではなくてただ単に有名なアトリエの慣行によって課されているに過ぎぬまったく恣意的な規則に、自ら準拠するのです。人数だけはきわめて多いが興味を呼ぶところのかくもすくないこの階層の中には、古代芸術の似非愛好家たち、様式の似非愛好家たち、一言にして言えば、自らの不能によって、紋切型を様式の位にまで昇格させてしまったあらゆる人間たちが含まれるのです。


    (阿部良雄・「ボードレール全集」・筑摩書房)
    | 批評・エッセイ | 10:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
    1846年のサロン・現代生活の英雄主義
     すべての美には、一切の可能的現象と同じく、何か永遠なものと一時的なもの、絶対的なものと特殊なものが含まれている。絶対的で永遠の美は存在しないのだ。むしろそれは様々な美の一般的な表面から抽象されたものでしかない。
    それぞれの美の特殊的な要素は情熱から来る。そして、我々は各々特有の情熱を持っているので、それぞれに特有の美があるのである。
    | 批評・エッセイ | 07:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
    テオフィル・ゴーティエ(1859)
     まず、テオフィル・ゴーティエが1811年にタルブで生まれたことを読者諸君にお伝えしようとしまいと、厳密にいって、まったくどうでもいいであろう。
    *
     偉大な大家による批評は、自分自身の眼で判断し、感じとることのできない、都落ちしたすべての人々にとって神託である。
    *
     芸術に陶酔した、或いは陶酔するふりをする社交界の人たちは、作品の中から、いわば政治的な唐草模様や、自分の現在の情熱の性質に適合した薬味で飾られた(或いは汚された)部分のみを丹念に拾い集める。
    *
     散文的で罪深い人間たちよ、君たちは彼を冷淡だと信じていて、彼が人為的な平静を自分に課していることに気づかず、君たちの醜悪と君たちの野蛮で、たえずこの平静を乱そうとする! 君たちが無関心と呼ぶものは、絶望からくる諦めに他ならない。意地悪や馬鹿は治らないと考えている者は、めったに感動しないものだ。
    *
     貴族主義はわれわれを孤立させる。


    (?・『ボードレール全集』・人文書院)
    | 批評・エッセイ | 04:02 | comments(2) | trackbacks(0) |
    『悪の華』 72・陽気な死者
    蝸牛だらけの泥土の中、
    俺は自分で深い穴を掘ろう、
    そしてその穴の中に自分自身の古びた骨を悠々横たえ
    海に沈む鮫のように忘却の中で眠ろう。

    遺言書は憎たらしい、墓だって憎たらしい。
    世間の涙を求めるくらいなら、
    生きたまま、鴉でも呼び寄せ、
    私の汚れた肉体を余すところなく啜らせたい。

    蛆虫よ、耳もなく眼もない暗黒の伴侶よ、
    見ろ、自由で陽気な死者が君らの元へとやって来たのを。
    放蕩の哲学者、腐敗の子よ、

    崩れかけた私の屍の中を憚ることなく散策し、
    聞かせてくれ、この死者の中の死者、魂もない古びた体に、
    まだ苦労などというものが残っているかを。
    | 韻文詩(悪の華等) | 01:03 | comments(1) | trackbacks(0) |
    赤裸の心
     人の一生のほとんどは、全く下らない好奇心に費されている。逆に、もっと人の好奇心をそそってもいいのに、世の一般生活を観察してみても、全然惹いていないものがある。

     私達の死んだ友人はどこにいるのか?
     何故に私達はここにいるのか?
     私達はどこから来たのか?
     自由とは何か?
     自由は神の法則と一致することが出来るか?
     魂の数は有限なのか無限なのか?
     住居し得る土地の数は?
     等、等…。



    | その他(日記、お手紙等) | 10:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
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